母の死から20年、受容と感謝

心を見つめる

こんにちは、さやかです。



先日9月6日は母の命日でした。



高校3年生だった私が
母を亡くしてから20年。



長い月日の流れを感じます。



20年経って今思うこと

それは、
母の死が受容の段階にきた、
ということ。



もし今また会えたら?
みたいに思うことはありますが、

母を取り戻したい気持ち
母の死をかわいそうに思う気持ち
自分を責める気持ちなど、

そうした感情は
もうほとんどなくなりました。



以前は、
母への想いうすれることが
母のことを忘れてしまうようで
手放したいけど手放せない
そんな気持ちもありました。



でも今は、
感謝しかない。



そう言い切れるような
気がしています。



それは、
たくさんの学びと気づきを通して、
この世界とそれぞれの人生における、
完全生への理解が深まったから。



それぞれのストーリーは
全て完璧なピースで織り成されていて、
若くして母の命が終わることも、
最愛の人の死を私が高校生で経験したことも、

すべてはうまくいっていた
ということを
深く納得できるようになりました。



そして、
命が終わるということは、
「今回の人生での学びは完了した」と
魂が判断したということで、
そこに後悔はないということも。



母の死を深く理解することができた時、
そこに残るのはやはり「感謝」でした。



死を理解するために

死を深く理解する(受け入れる)、
ということは一生かかっても
終わりのないことかもしれません。



でも、
誰かの死を受け入れる過程で、
何を経験させられたのか?と考えると、

「私」という囚われの意識を
どう扱いしずめることができるか


これに尽きると思います。



「私」というエゴで生きている状態は
自分の囚われた想いでいっぱいになっていて、
死を受け入れることなど到底できません。



「私」の想いがゆるんで、
囚われや執着が解放されるほど、
死への理解は深まります。



「死への恐怖」は、
「私」をしずめるためにある




「私」をしずめて自己解放が進むほど、
死を恐れる心もしずまります。



死を見つめることを恐がらずに、
丁寧に正面から向き合って、
理解して受け入れていく過程に
「私」をしずめるヒントが隠れている、
そう思います。



おわりに

20年、
私は母への執着が強かったので、
本当にさまざまな感情を経験しました。



結構ずっと苦しかったなぁ。



でも悩み抜いたからこそ、
納得感を持って今受容できているので、
私には必要な時間だったと思っています。



死の受容は人それぞれ様々で、
それぞれの過程があります。



焦らずに、自分の今を大切に、
それぞれのペースでいきましょう。



今日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。

感謝と共にありますように。

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