こんにちは、さやかです。
私は高校3年生の時に
母(享年47歳)を亡くしました。
その時のことを振り返り、
自分自身の体験や気づきを、
これから数回に分けて綴ってみようと思います。
今回は、
母が亡くなる1週間前から直後までのこと。
(2002年9月)
死の宣告
私にとって最初の
母親の対象喪失が始まったのは、
母の死の一週間前のこと。
私はその日、
父と妹と一緒に母の入院する病院に
お見舞いに行きました。
帰途につき家に戻ると、
父から話があると言われ、
母の寿命がもう長くはない、と。
母の病状が好ましくないことは
私もうすうす気づいていました。
“長くないってあとどれ位?1ヶ月?”
という私の質問に帰ってきた、
“あと1週間”という返答。
心も身体も凍りつきました。
あと1週間。
突然すぎる母の死の予告。
わけも分からずあふれ出る涙とともに、
ほんの数分の間に
母に対する様々な思いが心をよぎりました。
考えれば考えるほど心がしめつけられ、
現実が分からなくなって。
妹には私からそのことを伝え、
私たち家族はその最期の1週間、
できるだけ母のそばで過ごすと決めました。
私は受験生でしたが、
学校も塾も休み、父は会社を休み、
とにかく母との時間を第一優先に。
そして私は、
母の前では最後まで、
明るく笑顔でいつも通り振舞うことを
1人心に誓いました。
最後の1週間の時間
母と過ごした最期の1週間は、
私にとって何にもかえられない、
何よりも貴重で、
忘れられない時間となりました。
1日1日がとてもゆっくり
過ぎていったようにも思えます。
そして、最期の1週間は
母に素直になることができた。
それは母も同じであったと思います。
母の体はもうだいぶ衰弱していたけど、
それでも色んなことを話したり、
笑ったり、食べたり。
そんなごく普通の時間が、
何よりも幸せだと感じました。
最期の時間をかみしめる一方で、
私の心は不安と期待と
現実が理解できない気持ちとで
ごちゃごちゃ。
母の死が迫っていることを
頭では理解しつつも、
それが現実になることを
受け入れることができずにいました。
もしかしたらという希望も
最期まで手放すことはできませんでした。
最期にできること
余命を聞いた時、
母を1人きりでは死なせたくないと
強く思いました。
母がこの世を去るときには、
母にとって大切な人に囲まれていてほしい。
最期の1週間、色々な人と顔を合わせてほしい。
母がどれだけの人に
愛されているかを伝えること、
それが私なりの母への精一杯の
最後のプレゼントでした。
実際、母が亡くなる数時間前まで、
病室には誰かしらが
入れ替わり立ちかわり訪れてくれました。
自己満足ではあるけど、
それができたことで、
母の死後、幾分か救われました。
母の死
亡くなるちょっと前から
母は昏睡状態になり、
話ができなくなりました。
それでも、
声は聞こえているように感じたので、
近くで色んなことを話したり。
夜になっても離れて眠ることができず、
母の布団に潜り込んで寝ました。
少しの時間だったけど、
久しぶりに安心して深く眠れました。
少し寝て起きて、
父や母の妹と話していると
看護婦さんが駆け込んできて、
母の呼吸が荒くなり…。
父と母の妹、私と妹の4人が見守る中、
母は息を引き取りました。
最期にふっと笑ってくれたように
私たちは感じました。
そして私はありがとうと
おつかれさまの気持ちを込めて、
額にキスをしました。
死の直後
母が息を引き取ると同時に、
ことがどんどん進行していきました。
母はすぐに病院の安置室にうつされ、
そこで私たちは
お線香をあげなければならなかった。
今さっきまで息をしていた母に、
線香をあげることなど
私には想像を絶する光景でした。
線香をあげるということは、
母の死を認めることのようで、
私はそんなにすぐに現実と向き合うことは
できなかった。
起こる現実が目まぐるしすぎて、
心が追いつかず、
どこから整理をしたらいいのか、
身体と心が一致していない状態でした。
お葬式
私はしばらく、
そのお線香を上げるという行為に
違和感を覚えていました。
最初になんとかあげた時も、
心臓を包丁で刺されたような痛みが
心に走りました。
お通夜が始まり、
多くの人がお焼香するのをみて、
本当はありがたいことなのに、
怒りさえこみ上げてきた。
どうしてみんなそんなに早く
現実を見ようとするんだろう。
私にはまだ現実をすぐに受け入れるだけの
心の許容量はありませんでした。
でも、
儀式はどんどん進み、
お通夜から一夜が明けて、
母は火葬場へ。
最後のお別れをし、
火の中に入っていく母を見て、
人間の生きている意味、
肉体と魂について、
母の人生のこと、
ひたすら考え続けました。
母を見送る上で
葬儀は大事な行為だったと思います。
でも、
まだ心がえぐられたような状態の時に、
物事を進行させなくてはならないしんどさ。
葬儀屋さんにも、火葬場の方にも、
お坊さんにも、
私の納得のいく振る舞いや
話をしてくれる人はいなかった。
葬儀という場を通して、
色々な意味で何度も傷つけられ、
人への不信感が
増してしまった様にも感じました。
悲しみとの向き合い方
母を亡くしてしばらくの間、
どうしようもない不安や悲しみ、
心の痛みを感じながらも、
それをどこまで表現していいのか、
いつまで悲しみを抱えていていいのか、
よく分かりませんでした。
ただ、
自分に嘘をつけない性格だったので、
心が感じるままに、
心が少しでも楽になると思うことを
自分なりに模索する日々。
悲しいと思えば泣き、
母と話したいと思えば手紙を書き、
母のことを思い出したいと思えば
写真を見たり思い出話をしたり。
自分の感情が抑えきれなくなったら
自分の気持ちを誰かに聞いてもらい、
とにかく自分の気持ちを
無理に抑えることはしませんでした。
それでも
いつまで悲しみが続くのか、
いつまで悲しんでいていいのか、
分からないことだらけ。
でも、
感情に蓋をしなかったことは、
結果的に良かったと思います。
「正しい悲しみ方」
なんてないと思いますが、
必要な時間をかけて、
その人と、悲しみと、
納得するまで向き合うこと。
このことは
本当に大事だと思います。
気持ちを受け止めてくれる人がいたり、
立ち止まる時間があった私は、
環境に恵まれていたと思います。
誰かを亡くした時に置かれる環境は
自分では選べませんが、
決して自分の心に無理をさせることなく、
道が開けるまで悲しみと向き合ってほしい
ということをお伝えしたいです。
(以上、2007年に書いた卒論より引用)
まとめ
誰かを亡くすという経験。
誰しもが必ず、いつかは経験します。
でも、
誰一人として同じ経験をすることはない。
悲しみもどれ一つ同じ悲しみはない。
それは本当にそれぞれの関係性、
状況や年齢などによって様々です。
私自身の経験を書くことで、
誰かの支えになるかどうかは分かりませんが、
今心を痛め、進むことのできない人へ、
わずかでもきっかけや道しるべを届けられたらと
書き綴ることに至りました。
お役に立てれば幸いです。
今日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
悲しい想いをされている方へ、
少しでも生きる光になりますように。