映画『素晴らしきかな、人生』を見て

映画・本のこと

青山さやかです。



先日、
Collateral Beauty、
という映画を見ました。



日本語では、
素晴らしきかな、人生



子どもの死といった、
辛いストーリーが主軸にありながらも、

命の美しさや人生の輝き、
人の可能性に感動せずにはいられない、
とても美しい作品でした。



Collateral Beautyとは、
幸せのオマケと訳されていましたが、
付帯的/二次的な、美徳/すばらしきもの、
という意味です。



どんなに苦しい、辛いことにも、
必ずCollateral Beautyがあるということ。



私自身もつい先日、
母の死から19年のタイミングで
Collateral Beautyを受け取る、
そんな経験をしました。



今回は映画を通して考えた、

「愛する人を失うことと
そのことから学んだ大きな愛」

についてお届けしたいと思います。



傷ついた心が教えてくれたこと

18歳で母を亡くしてから、
「人生を必死に1人で耐え抜いてきた」
そんな想いがいつもありました。



もちろん、
色々な人に支えてもらってきたという
事実は理解しているのですが、
最後はいつも1人で踏ん張ってきた、
みたいな感覚。



そしてこの、
1人で踏ん張ってきたという想いは、
他者との分離を育んでいきました。



私の苦労を分かるはずがない
=むしろ分かってたまるものか
=世界はみんな敵である
=私が幸せならどうでもいい
=私は私、あなたはあなた

みたいな。



傷づいた心からの自己執着は、
「誰も私をわかってくれなかった」という、
他者への強い攻撃の意識を生んでしまった。



でも、
その状態で生きていることは、
とても苦しいことでした。



本当は愛に気づきたいし、
相手=自分ということを理解したい。



そこから、私の、
「相手=自分とは?」
「全は一、一は全とは?」という
探求がスタートしました。



全ての根底には愛がある

傷ついているのも
悲しみにしがみついているのも、
孤独を感じているのも
「私」という意識でしかない、

ということや、

自分の中には傷つくことのない
変わることのない本質がある、

ということ。



これらのことについては、
頭では分かっていたけれど
なかなか理解が進まずにいました。



でも、
何度も何度も内観を繰り返す中、
ある日スーッと
「私」意識と自己本質の同一化が外れる、
そんな体験をしました。



それは内観を通して、
「私=エゴ=自己執着」意識が
だんだんとクリアになった結果、

ポコっと「私」意識との自己同一化が外れて、
その下に自己本質が顔を出したような感覚。



自分の奥底にあった愛にあふれる、
宇宙につながる、全てと繋がる場所


愛や思いやりや癒しが
満ち溢れてくるような場所

初めて気づけた瞬間でした



自分の本質は、
常にいつもそこにいてくれ、
決して諦めることなく光を送り続け、
「私」をそばで信じ続けてくれていた。



自分の中にある愛に気づけると、
「私」は決して孤独じゃなかったと、
これまで肩肘張って生きてきた力が
一気に抜けていきました。



本当はずっと1人じゃなかった、
私自身の中にも宇宙からの愛が常にあり、
周りからの愛にも包まれていた。



過去の囚われや偏りや恐れも
パタパタと愛に書き変わり、
ずっと周りから注がれていた深い愛も
受け取れるようになりました。



人は生まれながらにして、
愛に包まれている存在

という言葉がようやく
腑に落ちたように感じました。



「全ての存在の根底には愛がある」、
これがきっと、
私に取ってのCollateral Beauty。



このかけがえのない気づきは、
母の死という大きな悲しみ
苦しみがあったかららこそ、
理解できたものだと感じます。



果てしない喪失感、
自分を見失うような苦しい日々、
でもそれがあったからこそ、
出会うことのできた今。



深く大きな悲しみは、
深く永遠の愛に気づくための

トリガーとなる
そんなことを実感した経験でした。


おわりに

この映画のストーリーは、
愛と死と時間から展開されていくのですが、
私は特に「愛」の表現が心に残りました。


 
愛は全て、全てに宿る、
今あなたの中にある痛みの中にすらも宿っている




本当にその通りだった、
今なら心からそう思えます。



命を考える時におすすめの映画です。


今日も最後までおつきあいいただき、
ありがとうございました。

最後の扉に出会うその日まで、
光が差し込み続けますように。


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