繰り返す行動の根底にある「不安」の正体とは

人生を見つめる

こんにちは、さやかです。



自分自身の思考や感情、
そこから派生する行動に対して、
何かモヤモヤした気持ちを感じる
ということはありませんか?



罪悪感ともまたちょっと違う、
自分に対して感じる「違和感」。



私の場合でいうと、

子ども達に嫌味を言ってしまったり、
強く言って聞かせようとしたり、
誰かと比較して安心していたり、
自分の方が上でありたいと思ったり、
意味/価値のあるかどうかを見定めたり、

そんな時に違和感を覚えます。



自分の中に根深く潜む、
優劣や上下、善悪、正誤の意識



こうした思考や行動は変えようとして
変えられるものではないので、
出てくるたびに観察し続けていくことで、
その根底に何があるかが見えてきます。



どうしてそんなに
強くありたいのか?
勝っていたいのか?
上でありたいのか?
正しくありたいのか?



その根底には、
「私」を強く認識したい
という意識が見えてきます。



人はやっぱり不安なのですね。



自分がここにいていい存在なのか、
自分がここにいるに値する存在なのか、

いつも不安でビクビクして、
自分というものが認識されないことを
ものすごく恐れている。



エゴという自我は、
周りと比較をすることで
「私」を認識するツールですが、

もっというと、
「私」を強く認識できると
安心する”ツールでもあるのです。



最近ちょうど、
『嫌われる勇気』を読み返していたのですが、

嫌われたくない/評価されたいというのも
結局「私」を感じていたいだけ



私たちは「私」を感じていないと不安で、
なんとか「私」を感じられるように、

勝とうとしてみたりとか
強そうにしてみたりとか
器用そうにしてみたりとか
正しい振る舞いをしてみたりとか….

そうして人生を複雑にしていきます。



でもその正しさや結果を
どれだけ「得た」としても、

「私」というものが
確固たる存在になることはなく、
不安が解消されることはありません。



「私」という不確定な要素を
握りしめるのではなく手放して初めて、
自分の存在は確固たるものだと
感じることができる




自分は「何者でもない」と理解した時に
確固たるブレない軸が育まれるから。



「私」を強く感じていたい、
「私」を強く認識していたい、

その意識に囚われている以上、
不足感から逃れられないということです。



まずは、
比較や勝ち負けといった
上下や優劣の意識や、
結果や目的ありきな善悪や
正誤の意識が出てきた時に、

「私」を感じようとしている自分
に気づくこと。



「私」を認識したいという
刺激に囚われているだけだと思えると、
違和感のある自分が出てきた時に
自然と行動が変わっていきます。



焦らず一歩ずつ、
自己理解を深め自己解放を進め、
違和感のある自分から
卒業していきたいですね。



今日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

不安から解放されますように。

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