みなさん、こんにちは
青山さやかです。
このところ、
自分の握りしめているものが、
以前に増してどんどんと緩み、
どこまでも謙虚で在りたい気持ちが
強くなっています。
今回は、
「謙虚である」ということについて、
お届けしたいと思います。
傲慢さへの違和感
意識的にしろ無意識にしろ
人はみな生き方のベースとなる意識、
あり方や前提を持って生きています。
その生き方のベースが、
心の奥底の本来の自分
が求めているものと異なる時、
人は違和感を感じます。
私の場合は、
小さい頃から生き方のベースは、
敵対心や傲慢さ全開で、
自分自分自分ばかりでした。
それでしか生きられなかったけど、
そんな自分に実はずっと違和感を感じて、
本来で在るためにどうしたらいいのかと、
もがいてきたように思います。
傲慢な自分に違和感を覚えるということは、
本来の自分が求める在り方は
愛で生きること・謙虚に生きること、
であるはず。
「謙虚でありたい」という
魂の叫びがいつも聞こえていたから、
傲慢さにまみれながらも
抜け出す糸口を探し続けてきたのだと、
今振り返ってみて分かります。
エゴの強い自分の傲慢さへの違和感、
これがあったからこそ
自分の中心を探求し続けてこれた。
今どんな時のどんな意識に
違和感を感じますか?
それは本来の自分の在り方へ、
近づいていくための大切なヒントです。
謙虚で在ること
謙虚でない状態は、
生かされていることを忘れ、
「私」が生きていると思い込み、
自我を主体に生きている状態です。
「私が」「私が」となり、
「私」が一番正しくて、大切で、
周りは「私」の幸せのためにあると、
勘違いをしているような状態。
その傲慢な意識は、
「私」が人生をコントロールしていて、
何でも思い通りにすることができる、
そんな考えにつながります。
その意識をベースに生きる時、
人生はとても苦しくなります。
なぜなら、
この世界の全てのものは
変化し続けるものだから。
変化しないものはないこの世界で
自分が何かをコントロールしようとする、
一定に安定的に変化しないように
留めることは無理です。
だからこそ、
人生をコントロールしようとする
結果をコントロールしようとする
その意識は生きづらさになります。
逆に謙虚で在るとは、
「私」が成し遂げている!
というその傲慢な意識を手放して、
全てを受け入れて生きることです。
今目の前に起きていることを
こんなはずないと否定するのではなく、
起きていくこと全てに身を委ねて
受け入れて理解していく。
流れに身を委ねて受け入れていくとは、
どんな経験も必要あって
与えてもらっていることを知り、
人生で学ぶべきテーマも歩むべき道も
人それぞれに決まっていて、
そのストーリー自体には意味がなく、
そこから何を感じ学ぶかこそ大切だと、
この世界の完全性を理解することです。
完全性と言うとスピリチュアルな
ふわふわした印象になりますが、
宇宙や量子物理学、脳科学などを学ぶと、
「私」とはただの脳の認知システムであり、
「私」がやっていることなどほとんどない
ということに気づけます。
それはつまり、
自分は完全性の中に生かされている存在
なのだと知ることでもあります。
そうして、
自己についての理解が深まるほど、
魂や自己本質という自分を導く存在
も理解できるようになり、
そこに委ねて生きられるようになる。
自己原点に対して、
謙虚に在れるようになると、
生き方全体も謙虚になっていきます。
そしてそれはとても心地よい、
違和感のない生き方だと感じます。
自分とは何なのか?どんな存在なのか?
それを探求し続けてきた中で、
「謙虚で在る」
結局はこれがどんな魂にも共通する、
人が本来求める生き方のベースではないか
と感じずにはいられません。
おわりに
本来の自分とはどのようにして
気づいていくものでしょうか。
まず、
自分という存在を客観的に見つめ、
外側と内側の境界線に気づいていきます。
そして、
外側であり内側ではないものを
一つ一つ切り離していって、
そこに最後残るのが「本来」の自分です。
自分とは何かを問い、自己対話を繰り返す。
私も道半ばではありますが、
外側のエゴや見栄や囚われがゆるむほど
本来の自分、自己本質が顔を出します。
外側が手放せるほど、
今ここの美しさに生きられる様になり、
流れを受け入れて生きるしなやかさも
育まれていくと感じます。
まずは気づくことから、
自分との対話を丁寧に重ね、
本来の声に耳を傾けてみて下さい。
今日も最後まで読んでいただき
ありがとうございます。
謙虚にしなやかに過ごせますように。