青山さやかです。
先週後半はダラスに寒波が来て、
今年初めての雪が積もりました。
学校は早々にクローズの連絡、
子どもたちは大はしゃぎで、
雪遊びを満喫していました。
今回は積雪よりも、
気温の低さからの樹氷が、
それはそれはキレイでした。
こんな砂漠地帯で樹氷とは…!!
雪のおかげで予想外の、
賑やかな4連休な先週末となりました。
さてさて、
ここ最近の私のテーマは、
「目的意識の手放し」です。
今回は、
このテーマを意識する中で感じる、
自分を消して生きるということについて、
お届けしたいと思います。
道のりが何より大切
何事においても、
目的意識が先に来てしまうと、
そういう自分であろうと、
等身大の自分を見失ってしまったり。
または、
そうなるために何が必要かを考えて、
内なる自分の声に耳を傾けることを忘れ、
今本当にすべきことを見失ってしまったり。
例えば、
自己執着がある自分を変えたいと思い、
今よりよりよくありたいと思うとします。
そう思う向上心は、
とても大切なものです。
でも、
その状態にたどり着くためには、
必ず必要な道のりがあります。
今すぐそうなりたいだとか、
そんな自分でなきゃいけないという想いは、
人生をコントロールしようとしていること
と同じこと。
思い通りにしようとするその心は、
モノゴトをとどめようとする心なので、
「執着」ということになります。
つまり、
よりよくあろうとするほど、
結局またそのコントロール心によって、
執着の世界から抜け出せない、
という負のループにはまってしまう。
目的意識が先にあることによる、
執着・不足感・虚無感の強まりは、
よく起こることの様に感じます。
どんなことにおいても大切なことは、
その道のりです。
人生の流れを感じながら、
魂の向かいたい方へ向かっていったら、
“結果的に”
より良い自分であった、
執着を手放せた自分であった、
この順番がとても大事。
まずは、
身体にしても心にしても、
自分の内側の声を聞くことから
始まります。
これがないのに、
こうありたい、こうなりたいという、
目的・未来ありきに生きることは、
結局は、
今ここの自分の声が聞けていないので、
行き当たりばったりに生きているのと同じ、
と言えるのではないでしょうか。
思い通りにしたい
目的意識に生きるということは、
人生をコントロールして、
思い通りにしようとしている心、
だと書きました。
この、
人生を「思い通りにしたい」とか、
思い通りにできるものだ、
と考える心こそ、
エゴの心だと考えます。
エゴの心とは、
「私」という存在を、
「私」が成り立たせようとする、
いわゆる「自我」です。
エゴがあることで、
人は自分と他者を区別できるので、
エゴは生きていく上で必要なもの。
ただし、
「私」が生きているという意識は、
全て「私」の思い通りにはならない
この世界では苦しみになります。
思い通りにしたいと、
何かをある場所にとどめようとしても、
変化し続ける諸行無常の世界では、
それは宇宙の流れに歯向かうことになるから。
そうではなくて、
この宇宙の流れのままにあること、
委ねて流れに逆流せずに生きることが、
本来の力を出し切って、
日々満ち溢れて生きることです。
宇宙の流れのままにあることとは、
つまり「私」を捨て去ること。
そして、
「私」を捨て去ることができた時に初めて、
人生を自由自在にクリエイトできる唯一の存在、
魂であり、宇宙と繋がれるのです。
自由自在に生きたいのであれば、
思い通りに自由にしたいという
自我をまずは捨てること。
「私」を捨てて、
ニュートラルである時に、
人は心に自由であれます。
少しややこしいですが、
このポイントの理解を深めることで、
より真の存在としてより真の幸せへ、
近づいていけると確信しています。
おわりに
自分自身がより軽く、
ただありのままの存在であるために、
こうありたい、
こんな意識を持っていこうと、
自分自身の内側から溢れる声を
感じとって言語化することは必要です。
向かっていく方向が全くないと、
何かに気づいたとしても、
軌道修正することもできないから。
ただ、
その理想型の自分に執着しないこと、
人生を「私」の思い通りにしようとしないこと。
ありたい姿であることが大事なのではなく、
日々、自我や執着と向き合うという、
謙虚な努力を重ねていくことが、
人生の醍醐味なのではないでしょうか。
今日も最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
マインドフルな1日をお過ごしください。