こんにちは、さやかです。
18歳の時の母の死から
17年が経ちました。
本当に紆余曲折あって、
自分自身も母となって。
17年目にして、
ゆっくりと心に降りてきた
気づきを綴ってみようと思います。
17年目の気づき
母を失った経験は今でも、
私の心の大きなベースとなっています。
先日久しぶりに、
南直哉さんの
「禅僧が教える 心が楽になる生き方」
という本を読み直しました。
数年前に読んだ時には、
なかなか心に入ってこなかったけど、
当時の歳の倍の時間、
人生の意味を模索し続けて、
理解できるようになった言葉。
それは、
「人生のそれ自体には
確かな意味がないのだから
わからなくていい」
ということ。
なんだかそれでは
振り出しに戻ったように
思われるかもしれません。
でも、
「執着を手放すこと」
を積み重ねた後に見るこの言葉の意味は
以前とは全く違いまました。
ヨガ哲学の教え、
“私”が自己本質であるという幻想。
“私”が人生をcreateしているという幻想。
その幻想にしがみついて
執着することで苦しみが生まれること。
自分がどれだけ、”私”に執着してきたか。
自分がどれだけ、
“私”の価値や生きる意味に執着してきたか。
南直哉さんの
「人生のそれ自体には
確かな意味がない」
とは、
“私” や生きがい/人生の意味は、
結局「人からの承認」によって
成り立っているだけ、
ということ。
「わからなくていい」
とは手放したらいいということ。
その上で、今、
誰かのためになすべきテーマを見つけ、
そのことに邁進する。
そのなすべきことすら
幻想と分かった上で力まず、取り組む。
人生なんてそれくらいでいいんだ、
と書かれています。
縛られてきた”私”を見つめることで、
抱え込んできた執着を見つめることで、
理解できるようになったこの言葉。
今まで、
自分の価値や生きる意味の
答えを求めれば求めるほど、
他人の価値観(承認)に縛られて、
不確実なものを明確にしようとして、
苦しくなっていた理由も分かりました。
生きるを楽しむ余白を
母の死から自分を保つようにと、
必死に必死に身につけてきた鎧たち。
一歩下がって、
執着してきたそれを手放しても、
何もこわいことはありませんでした。
むしろ、
息がスっと吸えるようになって、
軽く生きられるようになった感覚。
ようやく母の死から、
一歩を踏めたのかもしれません。
まだ端っこが
“分かった”レベルだから、
自分の血肉になるまでには
もう少し時間が必要そうですが。
それでも、
何かを積み上げたり抱え込んだり
握りしめたりしなくていい、
それが人生の意味ではないと思えたって、
大きな一歩。
執着のないしなやかな自分らしさや、
手放した上での自由な世界に向かって、
とりあえず、
不要なところからもっと
手放していこうと思います。
そして
ワクワクすることを楽しむ余白を持つ。
生きるって苦しいことじゃないんだ、
いつも気張ってなくていいんだって、
少し余白を持って歩んでいきたいなと思います。
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南直哉さん著 「心が楽になる生き方」
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今日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
みなさんが、
心から自分を大好きになって、
ナチュラルで幸せな毎日を過ごせますように。