陰陽から脱した球としてのあり方

自分らしさの見つけ方

青山さやかです。



気持ちの良い秋の朝です。



今日は、
朝からお気に入りのカフェに来て、
ディカフェコーヒーを飲みながら、
この記事を書いています。



自宅で、
人生研究に没頭している時間も好きですが、
こうして環境をたまには変えてみると、
インスピレーションも変わりますね。


今回は、
球としてのあり方について、
お届けしたいと思います。




愛のない人はいないと気づく

前回の投稿で、
朝は何かとバタバタしがち、
と生き方のクセを書きました。



私はそこに、
忙しくしていたい自分や、
完璧にしたい自分を見て、

そしてその価値観に縛りを感じて、
手放そうとしていました。



でもふと考え直すと、
時を同じくしてにそこには、
逆の価値観も存在している、
ということに気がつきます。



子どものペースを大切にしたい自分、
ギリギリまで寝かせてあげたい自分、
栄養のあるお弁当を持たせたい自分など、

思いやりに溢れた自分も、
そこに混在していた。



つまり、
行動の選択の根底には常に、
陰陽の様々な心(意識)が入り混じっている

ということです。



そう考えると、
相手をマウントする自分がいる時には、
尊敬する自分も必ずいる、
ということになります。



意地悪な”私”がいる時には必ず、
思いやりにあふれる”私”がいる、
全ては2つで1つなんだ、ということ。



ただ、
「相手は敵だ」という
根底意識が強かった私は、

どうしても、
「相手をマウントする自分」にばかり目がいって、
片方の自分にばかり反応してしまい、

「私は相手を尊敬できない人」
と”思い込んできた”ということになります。



自分に厳しい心を持っているということは、
それだけ愛に溢れた心があるということ。



相手に圧倒的に厳しかったり、
相手との分離を強く感じるのは、

反対にその分だけ、
相手への圧倒的に深い愛や、
一体感という統合の意識を持っている、
という証拠になります。



つまりは、
誰の心にも常に、
分離と統合の意識が混在しているということ。



=愛のない人はいない
ということになります。



自分を中心に持っていく

陰陽の両面の自分の素質に、
深い気づきを得ることで、
自分の中の愛への気づきも深まります。



ここで大切なことは、
陰陽両面ある自分を知って、

例えば、
陽=良い(と自分が思う)
自分になろうとすることでもなく、

陰=悪い(と自分が思う)
自分を否定することでもなく、

価値観のバランスを
陰陽どちらにも偏らせずに、
中心に持っていく
こと。



陰陽どちらも捨てる、
=自分をうすめていくことです。



真ん中にいない以上、
自分の本質で生きていない、
偽りの自分で生きている、
ということになります。

(自分らしさは全て幻想、
とはこの意味です)



内なる自分で生きるとか、
ありのままの自分で生きるとは、


陰陽どちらにも杖を置かず、
球として独立して在る状態




これが究極のあり方です。



自分を薄めていった結果、
価値観がゼロ・無となるのが、
究極のあり方。


日々修行ですね。



おわりに

杖を置かずに生きると言っても、
それはそう簡単なことではありません。



でも、
自分を観察することで、
杖を置く自分に何度も気づくことで、
少しずつ自分をうすめて、
自己本質であれるようになっていく。



それが人生の「道」なのですね。




今日も最後まで読んでいただいて、
ありがとうございました。

どこに杖を置いている自分も、
それは幻想で本質ではありません♡


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