「不快さ」の取り扱いカタ

人生を見つめる

青山さやかです。



今回は、
日常生活で感じる「不快さ」について
しくみを紐解きながら、
取り扱い方を整理していきたいと思います。



何を経験するかに価値はない

日常生活を過ごしている中で、
嫌なことや不快なことって、
取り除こうとか、蓋をしようとか、
なくそうとか、見なかったことにしようとか、
しがちだなぁと思います。



子どもたちを見ていても、
やっぱり自分が不快なことは嫌がるし、
できたら楽しくて甘くて
心地いいことを好むなぁと思います。



まぁ当然のことだと思いますが、
良いと感じることも
悪いと感じることも
どちらも起きるのが人生。



起きることを自分で選んで、
心地よいことだけ起きて!なんて
コントロールすることはできません。



ここで大事なのが、
ジャッジをせずに受け取る
という姿勢です。



良いと感じることも、
悪いと感じることも、
自分がそうジャッジしているだけで、
起きていることはただの事実。



その事実を事実として捉えて、
正面から見つめることができたら、
経験を学びにつなげることができます。



心地よさも気づきになれば
不快さも気づきになる、
ということ。



もっと言えば、
快や不快というジャッジを外せば、
全ての経験が気づきになるのです。



例えば、
出世することもしないことも
人気が出ることも出ないことも、
お金持ちになることもならないことも
子どもがいることもいないことも。



その経験の内容自体に
価値があったりなかったりするのではなくて、
それを通して何を学ぶことができるか、
それがとても大切
です。



加えて、
今目の前にある環境こそが、
自分にとってのベストな環境、
と知ること
です。



なぜなら
目の前の現実は、
自分の意識の投影だから。



その経験をしている要因は、
自分の意識の中にその因子があるからで、
その経験が辛いと感じるということは、
囚われている意識が要因になっているから、
ということになります。



つまりは、
今その経験と向き合うことで
より自由に生きられるから、
今これを経験している、
ということです。



気づきとは何か?

さて、
心地よさも気づきになれば
不快さも気づきになると書きましたが、
気づきとは何でしょうか?



気づきとは、
自分とは何かを知るためのもの、
自分の本質に気づくこと
です。



例えば、
運動をしていて痛みが出た時、
痛みをなんとかしよう
と考えるのではないかと思います。



でもそうではなくて、
「痛みを感じている」
ということの本質に目を向ける。



つまりはどういうことなんだろう?
その痛みを使って探求をすることです。



それはもちろん、
身体のつながりやしくみを
探究することもそうですが、
それを探究して観察し続けた先には、
必ず人生の本質につながります




どんな経験にも(不快さにも)、
自分の囚われ
=思考や感情などの心のクセ
を見出すことができる。



そして、
それを観察して行く先には
生き方のクセが見えてきます。



そのクセを見つめて行くと、
必ず人生の本質、
この世界の法則性のようなものが
分かってくる
ということです。



この人生の本質の理解が深まると、
自己理解も深まり、
囚われから解放されるので、
目の前の現象も解消されていきます。



どんな経験に対してもそうですが
特に取り除こうとしがちな「不快さ」は、
その症状や現象だけを見ずに、
その奥を見つめていく意識が大切
です。




おわりに

病気なども同じことですね。



どこかが痛いからと言って
その一点だけを何とかしようとする。



そうした対処療法的なアプローチは、
根本的な解決にならないだけでなく、
思考停止状態になってしまうので
何の気づきにもつながりません。



そうするとまた必ず
同じようなことが起きます。



それは、
身体のしくみ的に
根底から解決されていないから
再発するとも言えますが。



こうした症状も意識からくるものなので、
気づくべきことに気づけていないから
何度も同じことが起きるということ。



モノゴトの表面に囚われず、
常に問いを立てて
モノゴトの奥の本質を見て行く、
その姿勢を忘れずにいきたい
ですね。




今日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

毎日が気づきの宝庫となりますように。

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