私もあなたもそれぞれに主人公

意識をほどく

青山さやかです。


さて、
「“面倒くさい”からこそやってあげる」
をテーマに過ごした1週間。


やってみて、まだ、

面倒だなと思う
→いったん立ち止まって
→「あ、そうだった、面倒だからこそやるんだ」とテーマを思い出して動く

という手動変換な感じですが、
少しずつ意識が変わっていくのを感じます。


自分が今までどれだけ
「見返り」を求めて行動してきたか。



こんな事をしてあげたのだから、
ありがとうという見返りがほしい、

愛を伝えたのだから、
満足してくれるという見返りがほしい、
とか。


心の奥底では、
全てのことを「自分のため」としてしか
捉えられていなかったなと感じます。


こうして意識して過ごしていくと、
色々な気づきも寄ってきます。


先日、
『嫌われる勇気』を読み返していたのですが、
その中に痛快な言葉がありました。


“「わたし」に執着している人は、すべて自己中心的です。
「自己への執着」を「他者への関心」に切り替えなければらないのです。”

“自分にしか関心を持たない人は、自分が世界の中心にいると考えてしまいます。
こうした人たちにとって他者とは、「わたしのためになにかをしてくれる人」でしかありません。”


“「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」のですから”



イタイイタイ…


私のライフバイブルである、
『心がラクになる生き方』にも

“要は「自分を大切にしない」ことです。


そして、損得勘定抜きで「自分のため」でなく
「人のため」に生きていくことです。”


という言葉がありました。



そうなんですよね…

当たり前のことだけれど、
改めて肝に落としてみると深い。


ずっと違和感を感じてきた、
「わたしという大切な存在」への執着に
ようやく気づけたように感じます。


これまで、
私を飾る「私らしさ」への執着については、
色々と手放してきましたが、
自分の存在への執着は根強いものです。


「わたしという大切な存在」
への執着が強いと、

自分はこの世界の主人公
=周りは脇役と捉えがち
です。


「この人の存在は、
私の人生に花を添えてくれている」、
みたいな。


でも実際はそんなことはなくて、
誰もが自分の人生の主人公であり、

誰しも誰かの人生のために
存在しているのではありません。


ここで大切なのは、
皆、自分の人生の主人公ではあるけれども、
世界の主人公ではない、ということです。


それぞれの存在が、
自分の人生をそれぞれに
”主人公”として生きている。


だから、
だれかが世界の中心とか、
上とか下とかということはないのです。


どんな時も、
全ての人は意識体として対等であり

つまりは、
活躍できないと感じて凹んだり、
誰にも評価されないと自己否定したり、

そんな必要は全くないことが腑に落ちます。



ちなみに、
「自分への執着」を手放すとありましたが、

自分の人生を主人公として生きるには、
自分の生きる軸を持つことは必要です。


でもここで、

自分の軸で生きる
=「わたしという大切な存在」に執着する
=他者を自分を満たすためのツールにする


とならないことが大切です。


自分の軸を持って生きるとは、

自分の正しさを証明して生きることではなく、
自分が上位/特別だと証明することでもなく、

ただ、
周りの声や環境に振り回されずに、
目の前の自分の課題にたんたんと、
かつ真剣に向き合う生き方のこと。


何かをやってあげた先に、
「わたしに何を与えてくれるのか」を超えて、

私は他者に何ができるかを考えられた時、

「わたしという大切な存在」を手放して、
真の意味で自分の軸で生きられると感じました。


そしてそれが、
私がずっと探求している、

慈悲の心やアドラーで言う共同体感覚、
マインドフルネスでのインタービーイング、

という世界観への理解
につながるのだろうと思います。



今週は、
与えるを磨くために、
「承認欲求を手段としない”貢献”の模索」
をテーマに過ごそうと思います。


今日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

今週も心穏やかに過ごせますように。

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