そのままの自分を受け入れるということ

人生を見つめる

青山さやかです。



与える意識で生きる、
ということを探求中です。



そんな中で、
謙虚さの意識を育むために
生かされていることへの感謝」を
毎朝の瞑想に取り入れています。



「今日も生かされている、ありがとう」
と心に馳せる中で、

「2度と来ない今を大切にしなければ」
「生かされているこの貴重な時間」
という思考に引っ張られ、
気づけば生きることに執着していく方向へ。



おやおやこれは違うぞ…
と立ち止まりました。



生きるに執着することは、
必ず死を迎えるこの人生において、
苦しみになります。



全ては変化することを受け入れ、
死を受け入れること。



これがつまり
「私」という意識を鎮めることであり、
自己本質とつながって生きることで、
与える意識で生きるということでもあります。



「私」の意識で感謝すると、
どうしても執着する方向になり、
傲慢さや奪うエネルギーになってしまう。



ヨガでは、
「私」が自己本質だと思った状態で見ると
この世界が牢獄だと感じると言われますが、
それは
エゴによって囚われに支配されて生きることが
人生の本質だと思い込んでしまうから




でも、
自己本質の視点でこの世界を見たら、
この世界は「体験するためのもの」であり、
その囚われすらも自分自身の気づきや

浄化となる大切なものとなります。



だからこそ、
そうした一般的には苦しい・辛い
とされる体験さえ奇跡であり、

それを生み出している全ての環境、
それを体験できる身体があることなど、

生かされているという謙虚さが育まれ、
「私」が生きているのではないと
感謝の心で生きれると分かりました。




そうして、
感謝の理解が深まり、
今ココの完全性の理解も深まっていくと、
今自分に執着する心や、
恐れる心があることも全て含めて、
それが完全なんだと思える
様に。



どこか執着も恐れもない完璧な状態を
目指したい気持ちがあり、
今のままの自分をどうしても
受け入れられないところがあったのですが、

「そこに執着も恐れもあるからこそ
今必要なことを体験できる」
と受け入れられるようになりました。



執着や恐れに巻き込まれてはダメですが、
執着や恐れを持っているということには
気づきながらも、
それを排除しようとするのではなく、
受け入れてそれと共にその体験を味わうこと

大切だと腑に落ちてきました。



やっと完璧な自分を諦められたというか、
今ここにある現状へあらがう心が
落ち着いてきた感覚。



そのままの自分を受け入れるとは、
この瞬間の完全性を理解することで、
謙虚さや感謝の心につながるものだと
改めて整理ができてきています。



生かされているということも、
謙虚にあるということも、
感謝をするということも、

よく聞く言葉ではありますが、
これを真の意味で理解することは
そう簡単ではありません。



一つ一つの言葉と丁寧に向き合い、
理解を深めていくことが大切ですね。


今日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

明日から4月、
素敵な新月をお過ごしください。

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