青山さやかです。
前回の記事で、
そのままの自分をようやく
受け入れられるようになってきた、
と書きました。
執着も恐れもあるそのままの自分で、
目の前の意識や行動、気づきを
少しずつ積み重ねていくことで、
いつか自然と執着や恐れがゆるんでいた、
この自然の流れはとても大事です。
ただ、ふとするとやはり、
恐れのない自分、
執着のない自分、
偏りのない自分、
を目指してしまう心が出て、
自分の外側を変えることで
自己本質につながろうとしがち。
自分の外側を変えるというのは、
エゴ(「私」という意識)で
エゴ(外から取り込んでいる要素)
をこねくり回している状態です。
でもそれでは、
一般的に悪いとされる要素から
一般的に良いとされる要素に、
生きる軸を移動させているだけ。
一生懸命に粘土の形を変えているだけです。
粘土の形を変えることは、
この形でなければならない!
この形こそ自分らしさだ!
をゆるめる練習にはなります。
執着=自己同一化がゆるむので、
自己本質とそうでないものを
見極める手助けにはなる。
でも、
変わることのない自己本質は、
粘土自体にはなり得ないし、
粘土の形を変えることで
自己本質が変わることもありません。
なので、
粘土を自己同一化さえしなければ、
粘土をどんな形にしようとするかは、
実は大きな問題ではないのです。
「粘土は自己本質ではない」
と気づけた後に大事なのは、
ただ観察すること。
>目の前の意識や行動、気づきを
>少しずつ積み重ねていくこととは、
観察することで理解していくことです。
粘土で例えると、
圧を加えるとこう波打つんだなとか、
雨が降るとべちゃべちゃになるなとか、
こういう形だとバランスが取れるなとか。
心や身体や人生について
理解を深めていくことです。
ただ見つめる視点、
観察している視点が自己本質と知る。
執着がある程度ゆるんだ後は、
粘土の形をどうするかを悩むことより
どんな粘土なのかを観察して理解すること、
(この理解も理解しようとするのではなく
日々を重ねていく中でふと入ってくるというイメージ)、
それだけでいいのですね。
今日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
見つめる視点が育めますように。