客観視する自分を客観視する

意識をほどく

青山さやかです。



ここ最近のテーマ、
「そのままの自分を受け入れる」
ということ。



気づきを重ねる中で、
ふとジャッジの心が消える瞬間を
経験しました。



これはとても不思議な感覚。



これまでも
客観的視点は育んできたけれども、
ジャッジする思考や
陰陽に偏る感覚が消えることはなく、

一息置いて「客観的に見るを選ぶ」、
という感じでした。



でも今回、
ジャッジが消える経験をしてみて、
「もう一つ上のレベルの視点で
自分を見つめている視点がある」、
ということに気がつきました。



つまり、
現象があって体験している自分がいる
→それを客観視しようと心がける自分がいる
→その自分をも客観的に見つめる視点がある
ということ。



2番目の、
客観視しようと心がける自分は、
自己本質ではなく自我の意識です。



だから、
その自我の意識で客観的に見つめている以上、
自我は相対性の世界で生きているものなので、
ジャッジが消えることはない
のです。



なんとかしようとする意識は自我の意識で、
自我で自我をなんとかしようとしても、
ジャッジの世界から抜け出すことはできない、
ということになります。



自己本質を理解するためには、
執着を手放してエゴをしずめて考えずに感じる、
と言われています。



でも、
「なんとかしよう」として
執着をしないようにしたり、
エゴをしずめようとしたり、
感じようとしたりすることでは、
自己本質を理解することはできません。



大切なのは、
エゴが暴走している状態、
もしくは反対にエゴを
なんとかしようとしている状態、

そうした
全ての自分の要素を、
さらに一歩引いた客観的な視点で
見つめるということ




例えば、
執着は生きづらさであり
自己本質を見失う原因と学んだとします。



その時に、
執着を無理に手放そうとしたり、
執着をなんとか緩めようと行動したり、
結果ありきで動いてしまいがち。



そうではなくて、
執着をしている自分に気づいて
その自分を深く問うことだったり、
執着を手放した完全形になりたいと
正しさを求める自分を深く問うこと、
それがとても大事です。



どんな自分が出てきたとしても
自分とは何か?と問い続けること




ただし、
反対の行動をすべきではない、
(ここで言う執着をゆるめる行動を
する必要がない)という訳ではありません。


自我の意識でも
客観的視点を育むことは、
自己理解につながりますし、

もう一つ上の観察軸で見つめるとしても、
今までとは違う選択をすることで
心をかき混ぜることができるので、
見つめるための要素が浮かび上がります。



自分を問うための材料ができるということ。



少し言葉では表現しにくいのですが、
客観視、観察することには、
2つのフィルターがあると言うことです。



自我による客観視と、
自己本質による客観視と。



自我による客観視が深まっていくと、
自己本質による客観視も深まり、
自我が客観視しているところを
さらに客観視できるように感じます。



この自己本質の客観視が深まると、
ジャッジが消える
のはなぜか。



それは、
ジャッジしている自分を
さらに上から見つめている視点は
完全に中心の視点なので、
相対性の世界から抜け出せるからです。



ジャッジが消えると、
目の前で起きていることも
相手に対しても環境に対しても
たんたんと受け入れられます。



何より自分の人生のストーリーを
否定してあらがうことがなくなるので、
安心感の中に生きられるようになります。



まずは、
自我の意識での客観視を磨き、
自分とは何かを問うところから。



経験が積み重なっていくにつれ
自己理解が進んでいくと、
視座が広がり始めるのだと思います。



地味な積み重ねですが、
ぜひ探求を楽しんでみてください。



今日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

相対の世界から抜け出せますように。

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