青山さやかです。
親子でインフルが落ち着き、
ようやく通常運転に戻りました。
「健康である」ということの
奇跡を改めて感じています。
今回のインフル&
娘の熱性痙攣で感じたあれこれ。
今回はポツポツと降りてきた
気づきをお届けしようと思います。
体調が悪いと意識は漏れる
体調が悪いと
意識が外に漏れやすい、
ということを実感しました。
意識が外を向いてしまうと、
エゴに引っ張られ心のクセが出やすくなり、
私の場合は自己犠牲感が強くなり、
心がどんどんと閉じていきます。
体調が悪くなる自分を観察していると、
その様子が手に取るように分かる。
そして、
不必要にネガティブなことを考えすぎたり、
幸福感が薄れて不足感が増したり、
愛や安心感とのつながりを見失っていきます。
これは全て、
意識が外に流れてしまっているから
引き起こされることです。
体調が悪い中でも
意識を内に保つというのは、
なかなかハードルが高いものだと、
身体の状態が与える心や意識への
影響力を改めて感じました。
だから一切体調を崩さないようにする!
というのはちょっと違うと思うのですが
(ホメオスタシスを揺らすために
必要な体調不良もあるので)、
・崩した時に中心に戻りやすい
状態を普段から作っておくこと
・崩している最中に何をすべきかを
知っておくということ
それがとても大切だと感じました。
明日死ぬかもしれない
今回の娘の看病中にふと、
「私は明日死ぬかもしれないんだ」
と改めてふと気づきが降りてきました。
母が亡くなった時も
祖父母が亡くなった時も、
娘が1歳で熱性痙攣を起こした時も、
死はすぐそばにある、
ということは何度も感じてきました。
命という言葉には、
日々日々向き合っているつもり。
でもそれでも、
「いつまでも生きている」、
「明日が来るのが当然」だと
どこか無意識に信じてしまいませんか。
今回降りてきた気づきも
言葉にすると当たり前に分かっていること、
でも腹に落ちるというのは
納得感や理解の深さが違うと感じます。
でもきっとまたこの感覚を忘れて、
「いつまでも生き続ける」という意識に
戻ってしまうのだろうと思います。
でもそれでも、
命と向き合い続けることで、
自分でも気づかない内に少しずつでも
必ず自分の中での何かが変化していて、
いつか死を受け入れられていたり、
命のリミットを深く理解できていたり、
するのかもしれないなぁ、と。
変化とは、
だんだんと気づかぬ内に起こるモノで、
後から考えたら結果的に変化していた、
というものなのですね。
だからこそ、
こう変化したいと目的に囚われたり、
変化できていないと嘆くことには意味がなくて、
日々目の前のことをたんたんと向き合い続ける、
そのことに生きる全エネルギーを注ぐことが
とても大切だと感じました。
使命について
ふと、
これまで生きてきた道のりを思い返して、
どれだけの人が関わって今の自分があるのか、
と考えました。
私の人生における脇役(失礼…)
と感じてきた存在すらも、
なくてはならない存在であったこと。
自分もそうした意味での役割
を担っていくことが、
使命を果たすということなのかもしれない
と感じました。
幼い頃からの
「働いていない人は価値がない」
「事業を起こしていない人は価値がない」
「優秀だからこそここに存在していい」
という呪縛。
だからこそ私は、
自己実現や使命という言葉に
必要以上に引っ張られているけど、
本当はそれはもっと純粋で
シンプルでいいのかもしれないとも感じました。
「気づき」と向き合う中で、
本当の気づきは気づこうとしても気づけず、
モノゴトを見つめ続ける中で
ある日ふと降りてくるモノであり、
自分でコントロールできることではない
と分かってきました。
だから、
何をどうやって学んでどんな順番で
理解を深めてどうなろうとか、
小さな頭でどれだけ考えても
絶対にそんな通りにはならなくて、
私ができることは、
日々日々「向き合い続ける」ことだけ。
何に向き合い続けるのかは、
それぞれの人生の課題によって
異なるのだと思います。
大したことをするのではなく、
しっかり生きること、
それはつまり課題と向き合い続けること。
それが結果的に
誰かの役に立つかもしれないし、
立たないかもしれない。
「役に立つため」「優秀になるため」
などと目的を考えすぎずに、
自分の課題に集中することが
十分に使命を果たしている状態なんだと
理解が深まってきました。
おわりに
体調が悪く看病が続く最中は
心も身体もしんどかったのですが、
「それでも観察をし続ける」
ことが持つ力を感じています。
渦中にいる間はただただ感情を
言語化しているだけだったり、
醜い自分の心のクセを
見せつけられているだけだったり、
「逃げたい」「目をそらしたい」、
そう感じるかもしれません。
でもそれは、
学びの過程で必ず必要な道のりで、
そうしてかき混ぜられることで
心の底に沈む泥が浮かんでくるからこそ、
気づくことができて浄化が進むのです。
そして、
浮かんできた泥を
見てみないフリをするのではなく、
ジャッジをするのでもなく、
自己否定をするのでもなく、
ただただ観察することができて初めて
気づき=理解力につながっていく。
理解力を深めるために観察する
のではなくただただ観察すること、
この意識がとても大事だと思います。
日常のどんな時にもですが、
特にしんどい状況の時には
観察することをやめがちなので、
泥が浮かんでくるその時こそ意識的に
観察してみるといいかもしれません。
今日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
流れに委ねる心地よさを
感じていけますように。