こんにちは、さやかです。
日々自分を見つめていく中で、
「特別な存在になりたい」
「何者かになりたい」
そんな意識に何度も気づきます。
この意識を見つめていると、
その根底には
「ここにいていいと思いたい」
そんな想いが見えてきます。
「ここにいていいと思いたい」、
これって誰しもが抱える欲求
なのではないかな。
今回は、
「ここにいていいと思いたい」
という欲求について、
掘り下げてみたいと思います。
自分は不足している存在
「ここにいていいと思いたい」
という欲求。
それを自分自身で満たせていれば、
自分を信じることができている状態で、
何の問題もありません。
何かを得ることなく、
外界の要素で自分を成り立たせることなく、
ありのままの自分で完全で
ここにいるべき存在だと思えている、
ということだから。
でも、
大抵の人はその欲求を満たすために、
外から何かを得ようとします。
つまり、
「ここにいていいと思いたい」、
でもそのままでここにいるには値しない、
自分は不足した存在だと考える
↓
足りない部分を「得ること」で
「ここにいていいと思えるようになるはず」
と思い込む
↓
だから、
「特別な存在であろう」「何者かになろう」と
人の評価(外の要素)にしがみついていく
ということ。
そして、
思ったような人の評価が得られないと、
「人が評価してくれないから幸せになれない」
と自分の幸せを人に明け渡して、
自分の人生に絶望していくのです。
ジャッジメント
この負のループのそもそもの要因である
「自分は不足した存在だ」
といった考えを生み出すのは、
ジャッジメントの意識。
モノゴトを常に、
良い悪い、善悪、上下、優劣で見て、
そこに何か価値を見出そうとしているから、
正しくあれているか?人より劣っていないか?
ちゃんと役に立てているか?価値のある人間か?
と自分をジャッジして「不足」を感じます。
そして、
正しさ/人の評価をたくさん
「得る」ことができた暁には、
不足が埋まるので
「特別な存在」になることができて、
ここにいてもいいと安心して
幸せになることができるんだ、
と思い込む。
でも実際にはそうはなりません。
正しさや人の評価といった外の要素は
「変化し続けるモノ」であり、
心の底からの安心感を得ることはできないから。
瞬間的には
不足は埋まるかもしれないけれども、
「そのままでここにいていい」という
ブレない安心感にはつながりません。
また、
ジャッジメントの意識は、
「私は私、あなたはあなた」
という分離の意識を生みます。
相手=敵という分離の世界では、
人間関係を上下や優劣でしか見れず、
常に自分の正しさを立証するために
自分を強く見せたりマウンティングしたり、
比較や勝ち負けから抜け出せなくなります。
誰かに肯定してもらいたいと
握りしめた正しさ、
その正しさを確立するために
今度は他の誰かを否定したり。
常に自分を評価して、
常に他者からの評価を気にして、
常に相手を評価したり。
ジャッジがジャッジを呼んで
お互いをジャッジし合って、
一体何が自分の本心だったのか?
混乱して自分を見失っていってしまう、
ここにジャッジメントの恐さが隠れています。
二元的価値観からの解放
このジャッジメントの罠から抜け出すには
どうしたらいいのか?
自分の存在を疑わずに
信じ切るにはどうしたらいいのか?
それは、
ジャッジメントの意識を
観察する意識(軸)を育むこと。
二元的なこの世界で、
ジャッジメントに飲み込まれないには、
「観察する意識の確立」しかありません。
自分が自分をジャッジすることを観察し、
自分が相手をジャッジすることを観察し、
相手からのジャッジを観察していく。
全てのジャッジメントを
観察できるようになった時に、
モノゴトを良い悪いの二元的価値観で
ジャッジしない意識が育まれるので、
「自分を不足した存在だ」
と思うことがなくなるのです。
おわりに
人の評価に軸をおくことで生まれる、
「人に評価してもらえない以上
幸せになることはできない」
という感覚。
自分の幸せが
誰かの手の中にあることほど、
不幸なことはないです。
「いつか認めてもらえたら」
「いつか努力が認められたら」
と今を生きられないことにも
つながってしまう。
認めてもらおうが
認めてもらうまいが、
成功してようが
成功していまいが、
心地よく生きれていようが
心地よくいきられていまいが、
「すでに幸せだ」と理解すること。
そのためにも、
不足感、ジャッジメントの意識と
向き合って理解していくことが大切です。
一歩ずつ、やっていきましょう。
今日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。