どうも、さやかです。
一時帰国中の日々で
様々にこころ揺さぶられる中で、
自己肯定感について
気づきが深まる機会がありました。
心がブラされることに対して
観察を続けていくと、
「ブラされてしまう自分を
どこかしら自己否定している」、
ということに気づきました。
もちろん、
「ブラされない様に整えていきたい」
という意識は探求につながります。
でもそこで、
ブラされている自分はダメだ、
まだまだ足りていない、
という気持ちが出てきていたこと。
私はどちらかというと
自己否定しがちなタイプなので、
「自己否定をすることに意味はない」
ということはよく分かっています。
こうした場合は、
否定している自分に気づいた上で、
真ん中に戻ればいいだけ。
ただここで今回の新しい気づきは、
自己肯定もする必要がない、
ということでした。
最近よく耳にする、
「自己肯定」という言葉。
自己否定をする自分には
もちろん違和感を感じますが、
自己肯定を過剰に促す言葉にも
どこか違和感を感じていました。
違和感を探っていく中で、
「そっか、
自己否定もする必要はないけれど、
自己肯定もする必要はないんだな」
と腑に落ちました。
自分のクセや反応について、
色々とジャッジをしたくなりますが、
それでは本質を見失う一方です。
自分の言動に対して、
否定する必要もなければ
肯定する必要もないし、
一喜一憂する必要もない。
ただその反応している自分を
観察していくことが大切、
ということです。
反応するがままの自分を
観察していくとどうなるのか。
知恵や理解力が深まります。
そして、
理解が深まって腹落ちすると、
自分の反応は自然と変化したりします。
だから、
自分がその時どう反応するかを
ジャッジすることには意味はなくて、
自分の今をたんたんと観察し続けること、
そこに真実があると分かってきました。
ジャッジをするクセ自体も
なかなか根深いものですが、
それも観察する力を磨いていく中で
自然とゆるんでいけばいい。
急がず焦らず、
ニュートラルな心で観察し続けて、
目の前の景色を味わっていきたいですね。
そうしていくことができたら、
気づいたら目の前の世界が変わっている、
そういうことなんだと思います。
今日も最後まで読んでいただき
ありがとうございました。
素敵な1日をお過ごしください。