存在を受け入れていい証拠集めをする

自己受容したいとき

こんにちは、
テキサスからさやかです。



以前の記事にも書きましたが、
ありたい自分をイメージする』、
を意識しながら過ごしています。


自分は「そう在る」と決めるというのは、
すごくパワーのある行為だと実感しています。


意識して過ごしていくと、
私の今年のテーマでもある、
自分をマルっと許すこと=自己受容にも、
同じことが言えることが腑に落ちました。


私は今まで自分を丸ごと許すために、
様々なの価値観を洗い出して向き合って、
1つ1つ手放してきました。


でも、
手放しても手放しても
次々に価値観はでてきて、
全部きれいさっぱりは手放しきれない。


分析が大好きだった私は、
分析をすることで全ての道筋がクリアになり、
過去も心も全て紐解けると思っていたけど、
ここに分析の限界を感じました。


もちろん、
ある程度心を軽くするために、
内観して分析することは確実に有効です。


自分の心が雑音で一杯になっていたり、
縛られて動けない状態だったりすると、
重すぎて身動きが取れないので、
手放してまず軽くなる必要がある。


でも内観を重ねていって、
ある程度軽くなったら、
もう在りたい自分を決めてしまうこと。


そして、
在りたい自分として行動して、
行動から事実を作って、
価値観の書き換えを行った方が早い
ということ。


そんなことが、
分かってきました。


だから、
自己受容するためには、
自分を縛る価値観を手放しながらも、
同時に「自分を受け入れる(信じる)」
と決めてみることなんだ、と。


そうして
「自己受容している人」
として生きていく



そうすると、
それが実績となって、
本当に「自己受容できる自分を作る」
のだと。



自己受容、
自分を丸ごと許す、
自分の存在を受け入れる。


そこへの道のりに、
大きな気づきがあった1週間でした。



さて、
この自己受容への道のりが
変化したきかっけ。


それは、
1週間ほど前の足の親指の骨折です。


その経験を通して、
深まった気づきが、
大きな気づきへと繋がりました。


今回は、
骨折を通しての様々な気づきと共に、
「存在を受け入れる」ということについて、
お届けしたいと思います。




罪悪感を感謝に

今回の足の親指の骨折。


朝暗い中、
バタバタと準備をしていている時に、
こぼしたままにしていた水で滑って、
親指に全体重が乗ってしまい…


病院へ行ったら折れてました。


こんなに簡単に…一瞬で…
全治8週間。


そんなカッコワルイ出来事も、
全ては最善で、
全ての事象には学ぶべきことがある。


そう思えるようになっているので、
ポジティブに捉えて
過ごすことができています。



ただ、
足の親指が使えないって、
超不便です。


右足なので運転もできず、
1人ではどこへも行けない…


子どもの送迎もお願いしなければならないし、
家の中の行き来もままならないので、
家事をやろうとしても全くはかどらないし。


部屋はどんどんカオス化するし、
誰かと会うにしても相手を頼るばかり。


外食に頼ったり、
心温まるご飯の差し入れをいただいたり。



そんな状況で、
周りからの愛に改めて気づかされ、
それと同時に、
「甘えられるようになった自分」
にも気づきました。


例えば、
誰かが片づけているのに、
自分が座ったままだと
なんだかソワソワしませんか?


私はすごくソワソワするし、
申し訳ないと思って、
いてもたってもいられなくなる。


だから以前は、
自分が動けないのに誰かと会うとか、
迷惑になるようなことは
できるだけしない様にと思っていた。


でも心を緩めてきて、
以前より甘えられるようになり、
今回めちゃ周りに甘えています。


やってもらうことに対して、
罪悪感ではなく、
感謝を感じるようになった。



この捉え方のチェンジは
とても大切な感覚だと感じています。



また、そんな、
「自分を許せている自分」に
目が向けられるようになったのも、
ここ最近の変化。


これまでの過去の経験では、
成功した(上手くいった)としても、
失敗した(うまくいかなかった)としても、
自分の足りない部分に
常に目を向けてきました。


でも、
完璧な状態がない以上、
モノゴトが失敗・成功どちらだとしても、
できている・できていない部分
(気づけている・気づけていない部分)
が必ず存在する。


その時に、
どちらに目を向けるかによって、
見える世界が一変します。



「あるモノ」に目を向ける
の記事にも書きましたが、
あるモノに目を向けるその意識。


それによって、
日常や対子ども達においても、
「あ、私、こんなところ
緩められるようになってる」、
と変化に気づきやすくなりました。


そうして、
できている部分に目を向けて、
過去の出来事の捉え方も
反省ではなく学びに変えていく


そうすることで、
自分が満たされていき、
存在への愛が増すことを感じています。




人の役に立つこと

そんな感じで、
現状全く役に立てない状態なので、
人の役にたつことについて、
色々と思考が巡ります。


人の役に立つとはどういうことか?
使命を全うするとはどういうことか?


私は母の若くしての死の経験から、
使命を全うしたいという気持ちが強く、
使命を全うするには
人の役に立たなくてはならない
という気持ちが強くありました。


分かりやすい形で
人の役に立っていないと(仕事として)、
使命を全うすることができない。


無意識にそんなイメージが、
自分の存在を否定し続けてきました。



でも、
人の役に立てないと
本当に生きている意味はないのか?


実際骨折して、
役に立てない状態で考えると、
「周りの人が誰かの役に立つため
の役には立っているぞ」
と思ったりします。



人間関係は持ちつ持たれつ、
ということ。


役に立ちたい気持ちが強いと、
役に立つための相手が必要になる、
と言われたことがあります。


それだと、
上下関係が必要になり、
承認欲求やマウンティングなどが
前面に出てきてしまう。


まずは何より、
役に立っているかどうか考える前に、
自身の存在を受け入れることが大切
です。



以前の記事で、
夏に辛い出来事があったと書きましたが、
初期流産でした。


その時に実感したことは、
「人は誰でも存在するだけで
大きな影響力がある」
ということ。


それは全ての人間において、
そうなんだと思います。


全ての魂は存在するだけで十分であり、
役に立とうとする必要はない。


実は気づかないうちに
役には立っているというか、
世界に何かしら影響を与えている。


そんなことを強く感じました。


目の前のことに振り回されたり、
余計な苦しみに飲まれないためにも、

様々な経験を通じて、
「存在を受け入れていいんだ」という
証拠集めをしていく意識が大事

だと考えています。




溢れるパワーの秘訣

最近、
私はとても疑い深い人間なんだ、
ということに気づきました。


以前、手相を見てもらった時に、
「石橋を叩いて渡るタイプ」
と言われたことがあります。


今まで、
バックパッカーで20か国以上を旅したり、
大企業からシンガーに転身したり、
海外でヨガインストラクターになったり、
企画発足やイベントを開催したり。


色々と挑戦してきたので、
「石橋を叩いて渡る」という言葉、
正直しっくり来ませんでした。


でも、
その本当の意味が、
「疑い深い心」だったと分かり、
納得しています。



「自分を信じる」
と決めて信じたいけど、
本当に?どうして?信じる価値は?
と考え始めてしまう。


「これがいいよ」と言われたときに、
素直にやればいいだけなのに、
なんで?どこが?どういう風に?私にも?
と思考優位になる。


私はどちらかというと
行動はする方だけど、
その裏で心はいつも疑って、
その疑いを晴らすために
あの手この手で調べを入れていました。


本質を突き詰めるために、
問いを立てることは大事だけれど、
それが疑うことになってしまうと、
本質が見失われてしまう。



先週のテーマであった様に、
まず在りたい姿を決めること。


その上で、
いい面に目を向ける、
あるモノに目を向ける意識で、
探求心と共に(疑いではなく)
そうであることの証拠を集めていく



この絶妙なバランスが、
生きるパワーを溢れさせる
秘訣と言えるのではないでしょうか。


おわりに

今週は、
「存在を受け入れること」を決めて、
その証拠集めをしてみる、

です。


自分の存在を受け入れることができたら、
家族の存在ももっと受け入れることができる。


家族の存在を受け入れられたら、
周りの存在がもっと受け入れられるようになる。


全てのベースは、
自分の存在を許し、
受け入れてあげることから。



ぜひ、
そんな温かさ・優しさを見つめ、
その証拠を集める時間にしてみて下さい。


ではでは、
怪我には十分お気をつけて!

今日もエネルギーを受け取っていただき、
ありがとうございます♡

今週も愛溢れる1週間をお過ごしください。

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