人生の力みは背伸びをしている証拠

自分らしさの見つけ方

青山さやかです。



週末にちょっとした、でも、
とても大事な気づきがありました。



年末年始、
この時期っていつも以上に
SNSを発信する人が多くなる時期です。



1年の振り返りや新年の抱負やら、
こんな大きな変化があったとか、
人生の絶対的な正解を見つけました、
とかとか。



もともと比較や競争の中で育ち、
外に意識を持っていかれやすい私は、
こうした発信に中心軸がかなり
ブラされやすいタイプです。



気がつけば、
比較や競争の渦に飲まれ、
自分の中心を見失いかけていました。

 “この「私は真意を見つけました」
 と発信している人たちは、
 何を見つけたと言ってるんだろうか?

 私は原点と出会うことができたはずなのに、
 まだ「存在」への不安は残るし、
 絶対的な安心感を感じられていない。

 まだ私は自分の本質の完全性を
 心から信じることができていない…”
 


グルグルグルグル…..



外に流れる意識は、
「それに引き換え私は」と比較を生み、
思考を混乱させます




そしてまた、
不足感を助長させます。



そんな、
グルグル思考に迷い込んでいる私に、
夫がくれたコメント。

 “今答えを求めていることは、
 本来は人生を通して悟っていくような、

 もしくはそれでも多くの人は
 悟らないまま死んでいくような、
 超でかいテーマであって、

 しかもその答えはある日一瞬天から
 下りてくるようなものじゃなくて、
 時間を掛けてゆっくり熟成されるものなんだと思う。

 だからこの10年を振り返っても、
 その答えは出てなくても絶対に前には進んでいて、
 ゼロでも100でもなくてその道中にいるはず。”



あ、そうか…
私はとてつもなく大きなテーマを
この小さな脳みそで急いで理解しようと、
必死になっていたんだ…



もしかして私は、
本気で自分が「悟れる」と、
自分は悟れるほどの人間だと
思い込んでいたということか…
と気づかされました。



自分は悟れる人間だと本気で信じていた、
これも随分傲慢な話で恥ずかしさ満点ですし、
そもそも傲慢な人間が悟れるはずがないのですが。




ここで、
私は自分で自分のことを
「自分はものすごくできる人」
「本当はすごい人」、
だと思ってきたことを認識しました。



ここには、
母の育て方が影響しています。



幼い頃から実力のままの私ではダメで、
誰かより優れていたり勝っていたり、
それができた時に認めてくれた母。



母親に認めらるか認められないか、
つまり愛されるか愛されないかというのは、
子どもにとっては死活問題
なので、
必死に愛されるように実力以上を狙います。



でも誰か以上になれなかったり、
母が納得する結果が得られない時には、
本当はもっとできるはず、
と叱咤激励する母でした。



そんな風に育てられる中で、
等身大と自分が思い込む自分は、
常に実力の150%くらいの自分で、
気づけば力んで頑張ってしまう

そんな生き方のクセが確立されました。



等身大でありたい



今を認められずにきたことで、
どうしても実力以上を出そうとして、
力んで頑張っちゃうけれども、

「本当はそんなできる人じゃない、
でもそれでも私は十分魅力的なんだ」

という心で生きていきたい、
そんな風に思いました。



すごい人でなくてもいい、
すごい人にならなくても存在していい、
ここの不安が緩んでいくにつれ、
着飾った等身大ではなく裸の等身大へ
マインドシフトを感じました。



何かができるからとか、
何かを達成して結果を出しているからとか、
持ち物がすごいから、
人は魅力的なのではない。



裸でただただ存在として在れること、
その心のあり方は愛にあふれ、
とてつもなく清らかな状態だから、
魅力が溢れ出す
のですね。



ただただ在るというのは、
シンプルだけれど難易度の高いこと。



でも心を開いたままにして、
恐れを乗り越えていくことで、
ド派手に着飾らなくても、
安心して存在できる様になるのだと思います。



裸の等身大であれるように、
一つ一つ重ねていきたいと思います。



今日も最後までお読みいただき、
ありがとうございました。

力まずにがんばらずに、
歩んでいけますように。


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