反省するのをやめた理由

自己受容したいとき

こんにちは、さやかです。



色々と重なって余裕がなくなってしまい、
子ども達に瞬間的に暴言を吐いてしまった先日。



もともと気が短いので、
この瞬発的に湧き上がる感情には
なかなか苦労しているのですが。



相手に対して暴言を放った瞬間、
その言葉の矢がくるっと回って戻ってきて、
自分の心に突き刺さるような感覚がありました。



ものすごく痛かった。



相手を傷つけてしまった痛み、
相手を許せていない痛み、
自分を何か責めているような痛み。



それを感じたその時に突然、
もう反省するのはやめよう、
反省するのをやめて全てを許そう

そんな言葉がふってきました。



自分を許していないと気づくこと

どうしてイライラしてしまうのか?
どうして見下したくなるのか?
どうして嫌味な態度をとりたくなるのか?



それは自分自身を許していないから、
自分自身が傷ついたままだから。



自分自身を厳しく裁いているから、
相手のことも厳しく裁きたくなる




そう気づいた時に、
傲慢な自分が出てきてしまうことを
反省をするのをやめてひたすら許そう、
という意識にたどりつきました。



どんなダメだと感じる自分でも、
理想通りにでない自分を反省することは、
自分を否定することと同じ。



それではいつまで経っても
ジャッジメントの思考から抜け出せません。



反省をやめて許す。
自分を許す、相手を許す。




そんな風に感じてしまう自分も、
そんな風に振る舞ってしまう自分も、
そんな風に言ってくる相手も、
そんな風に空気を読めない相手も。



許す。



許すということは、
ジャッジをしないということ
で、
良い悪いの枠組みから解放されるということ。



良い悪いから解放されると、
ありのままを受け入れられるようになり、
偽ろうとしていた自分にも気づくことができて、
とても心が軽くなりました。



ジャッジしそうになった時は許す、
これを積み重ねる。



そうして許し切った時、
ジャッジの思考から解放されることで、
自分の感情や心の反応も根底から
変わっていくのだろうと感じています。



「許す」というキーワード、
正しさやジャッジメントからの
救世主ですね。



おわりに

ちなみに、
許すことと甘やかすことは違います。



例えば、
傲慢な自分や思いやりのない自分が
出てきた時に許すというのは、
深くそれを認めるということです。



そんな自分でもいいんだからと、
これが私なんだからと開き直って
投げやりに甘やかすこととは違う。



甘やかすというのは、
良い悪いのジャッジの上で、
悪いと感じる自分も肯定している状態です。



この反対が自己否定で、
悪いと感じる自分を否定して、
自分に厳しくなってしまう状態ですね。



一方で許すというのは、
ジャッジ自体をせずに、
事実を事実として深く認める

ということ。



「そうした要素が自分にはある」
とただ真摯に受け止める。



そうすることで、
本当の意味で
「なぜその要素が生まれるのか?」
を問えるのだと思います。



ジャッジの思考に縛られている以上、
「どうしてこんな自分が出てくるのか?」
という問いは、

「私は理想に対して何が足りないんだろう?」
に置き換わり、

「一体何を改善したら、
私は完全になれるのだろう?」と

自分に対しての不足感や不信感に
つながってしまう。



ジャッジの思考を手放すという意味で
全てを許していくことで、
モノごとをフラットに見れるようになります。



そうした視点を育むことが、
「私」であり思考をしずめることにつながり、
自分の本来の声を聞いて生きる、
というところにつながってくる。



ジャッジを手放すとはどういうことなのか?



色々とつながってきますね。




今日も最後まで読んでいただいて、
ありがとうございました。

許して許して許していきましょう。

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