こんにちは、さやかです。
自分の日々の行動を振り返って、
「見返りを求めているな」、
と思うことはありませんか?
「これだけしてあげたんだから
言うこと聞いてよね」
「これだけ共感してあげたんだから、
今日はいい子にしていてよね」
「これだけ愛を注いであげたのに、
どうしてワガママいうの?」
「こんなにやってるんだから、
私のこと分かってよね」
とかとか。
更には人生でも、
これだけやったんだから、
これだけ勉強したんだから、
これだけ自分にストイックになったんだから、
それ相応の現実になってよね!
みたいな想い。
思い当たる節、ありませんか?
見返りを求めるとき
「見返りを求める心」は、
苦しみの要因になります。
どう苦しみになるのか?
というと。
見返りを求めること
=自分の行動に評価を求めている状態で、
これは自分の存在理由を
人からの評価に委ねている状態です。
でも、
人からの評価というのは
安定しない要素。
つまり、
相手の反応や評価によって
自分の存在理由がブラされる、
という苦しみにつながります。
では、
そもそも私たちはどうして
「自分の行動を評価してほしい」
と思うのでしょうか?
それは、
「自分は不十分だ」
と思っているから。
自分がここにいていいのか不安で、
自分がここにいる価値がある人だと
思いたいのに思えないから。
どうして
「自分は不十分」と思うのか?
それは、
自分の本質(存在価値)が
外の要素によって成り立つものだと
思い込んでいるから。
本来、自分の存在というのは、
変わりゆく不安定な外の要素
で成り立つのではなく、
むしろ外の要素を全て手放した時に
そこに残るものであるはずです。
でも私たちは無知なので、
外の要素=自分自身の本質だと思い込む。
そうなると、
外から何かを取り込んできて
抱え込んで握りしめていないと、
自分が自分でなくなってしまう
といった感覚になります。
これが「自分は不足している」
と考える理由です。
自分の存在というのは、
何かを取り込まなくても、
存在として十分で完全である。
ここの理解が進むと、
自分の中にブレない中心軸が育まれ、
自分の存在を不足に感じたり、
自分の価値を感じようと
行動することがなくなります。
「外の要素を取り込まなくていい、
握りしめなくていい、手放していい」
と理解するには、
自分自身と向き合って内観していくこと。
手放していく方が本質なんだと、
手放していく方が安心なんだと、
実感していくことです。
そうして、
握りしめていた
荷物が減っていくと、
自分の存在意味を
感じる必要性すらなくなり、
見返りを求めることなく
行動できるようになります。
おわりに
相手に見返りを求めたり、
宇宙に見返りを求めたり、
本当は一体誰に認めて欲しいのか?
一番は、自分自身なのだと思います。
自分で自分のことを認められないから、
誰かにどうにか認めてもらおうとする。
そのままの自分では不十分だと
不足感を感じるからこそ、
何かで満たしてもらおうと
見返りを求めるのです。
そう考えていくと、
見返りを求める自分と向き合う時、
「自分の存在を信じること」、
これがとても大事なのだと感じます。
今日も最後まで読んでいただいて、
ありがとうございました。
心地よい人間関係を育めますように。